2022-06-29

朝9時すぎに起きる。寝起きの頭を覚醒させるために、起きてすぐに体を動かすルーティーンを作った方がいいと思い至り、布団を畳んで掃除機をかけるというバイト先で毎朝やっていることを自分の生活にも導入してみる。掃除機をかけると思った通りに頭がシャキッとした。掃除は億劫だが、日課にしてしまえば体が「やらないといけない」と思い込んで勝手にやってくれる。家事を機械化する。

いつも自宅で仕事している父が今日は珍しく会社に行くというので、10時に父を見送ったあとは家で犬と二人きりになった。一人と一匹きり? 犬の排泄や食事の世話を一通りして、自分の朝ごはんを食べる。家に誰もいないのを良いことに家の中で思いきりメロディオンを吹きまくる。ご近所さんには絶対聞こえていた。メロディオンは息を強く吹き込みすぎるとうまく音が鳴らないと知る。飽きて今度はピアノを弾いて歌う。

13時に昼ごはんを食べる。食べたらすぐに食器洗い。これもルーティーンだから全然苦にならない。ぼんやりお皿を洗っていると、ふと、浅野いにおの言葉が思い浮かんだ。確か浅野いにおが4年前にwebちくまで公開していた日記連載のなかで、「仕事をしている時以外はできる限り何も考えないようにしている」というようなことを書いていた(もしかしたら連載当時のツイートだったかもしれない……)。瞬時に千葉雅也の執筆論を連想した。書こうとすると書けない、書こうとせずに書く。同じことを言っているじゃないか。さらに、いま日記を書いているうちにも連想が繋がってきた。ドゥルーズの生成変化、何かをつくるのではなく何かに-なること。ミヒャエル・エンデ『モモ』の後半部分でモモが眠ってしまうこと。全部同じではないか?何かをしようとしないことの重要性を説いている。いや、浅野いにおは別に説いてはいないか。ともかく日記連載を読んでいた当時には「何も考えないようにしてわざと時間を無駄にするなんて、なんかぼんやりした人だなあ」という感想を抱いたことをはっきり覚えている。浅野さんがぼんやりした人かどうかは知らないが、ぼんやりすることに対する評価はあのころから180度変わった。

食後、PCで複数のテキストエディタを弄りながら文章をまとめる。以前、大前粟生の『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を先輩に借りて読んで感想を言い合ったとき、「めぐみちゃんが書いたのかと思った」と言われて、私もところどころ自分が書いたのかと思う部分があるなと思ったと返した。そんなことを思い出した。今日はなんか色々なことを思い出すなー。

15時ごろ父が帰ってきて、16時ごろ母がパートから帰ってくる。シャワーを浴びて少しだけ伸びた前髪を切った。