2022-06-19②

一昨年から去年にかけて、別名義のブログで日記を1年くらい続けて書いていた。毎日は更新できなかったがなるべく毎日分の日記を残すようにはしていた。

書き始めた当初の日記は今となっては正直読めたものではないと思ってしまう。自分でも制御できないままに、どこかの誰かが書いた手触りの良さそうなフレーズをなんとなく寄せ集めただけの、自分の言葉ではない文章。そう、日記を継続して良かったのは自分の言葉を持てるようになったという実感が得られたこと!

結局、文章を組み立てる言葉はすべて何物かのサンプリングであるという運命から逃れることができない。その上で、言葉を意識する生活を続けることは、人が使う言葉のサンプリング元は何か?と考える訓練になっていた。たとえば人が「ダメな自分を愛する」と口にしたとき、その言葉の下に地層のように積み重なった思想を想像する。ダメな自分とは何か?「ダメな自分」という言葉を使うことで、「人間にはダメな状態がある」という前提が確立してしまうのではないか?「『どんな自分でも愛する』ために、『人間にはダメな状態がある』という思考の枠組みを解体する」と言い換えるのが適切ではないか?……こんな風にして言葉に誠実であろうとし続けた結果、言葉に乗っ取られることなく言葉を自分のモノとして使えるようになった。

初期の記事を読み返すと、言葉に使われている、と思う。言葉の使い方が下手で、納得できない思想に同意させられていた。しかし、たかが1年前の記事を読み返しても下手くそだと感じるのだから1年後や数年後には今日こうして綴っている文章だって恥ずかしくて読めたものじゃないとか言うのだろう。下手くそで恥ずかしい記事をそれでも削除せずにそのまま残しているのは、文章が変わっていく過程を記録しておきたいから。全ては過程の中にあると考えると、今うまく出来ないと思っていることが楽しくなる。それで十分じゃないか。