2023-5-29

 一人暮らしを始めた最初の日に、記念に何か新しいことをしようと考えて始めた「うんちダイアリー」。

 

 

 日々の排便の記録を「#うんちダイアリー」と付けてツイートしている。「#うんちダイアリー」で検索したらわたしの排便状況を見ることができます。かなり便秘気味!

 

 もともとは食事の記録を毎日写真つきでツイートしようかと考えていたんだけど、それだと誰かと一緒にごはんを食べたときにその人のプライベートを暴露してしまうことになるから、代案として排泄物の記録をつけることにしたのだった。さすがに写真は撮らないが。

 誰に弁解するわけでもないのだけど(便だけに)、ウケ狙いでやってるわけじゃない。毎日続けることが目的だったから、なるべく継続しやすいことを色々考えた結果うんちダイアリーが選ばれたのだ。

 気づけばもう101日目。続けてみて「続けやすいことは、続けられるんだな」と思った。わたしは怠惰で飽きっぽい性格だから、頑張って続けるぞ!と気合を入れてしまっていたらこんなに続かない。ただ気合を入れてない分、特に大きな感慨もない。

 

 さて、うんちダイアリーが101日目ということは引っ越してから3ヶ月経ったということだ。久しぶりにブログを開くとちょうど3ヶ月前に書いた記事があった。

 

captainmegumi.hatenablog.com

 

 自立生活センターで介助者として働き始める直前の日記だ。なんというか非常に正直な思いが書かれていて、3ヶ月前の自分に渾身の苦笑いを届けたい。

 

 (前略)感覚的に「障害者は他人の手を借りて生きる存在である」と思ってしまっているところが私にはあるような気がする。(中略)ことさらに障害者を「助けが必要な存在」として規定するような感覚が自分に全くないとは言えない。正直なところ。

 

 前後に「自分の"障害者観"を再構築したかった」、「そういう感覚が消えていくんじゃないかと期待して、今からワクワクしている」と書いていることからわかるように、上記の内容はもちろん自己批判的に書いたのだが……それにしても。

 3ヶ月前のわたしが言う「障害者を『助けが必要な存在』として規定するような感覚」とはつまり「障害者を自分よりも弱き者としか見ていない」ということだ。そうでしょう?そういう差別意識を持っていることを認めてこれから変わろうとして、実際に行動しているのだからあまり責めないであげたいが、今もし友達や家族が3ヶ月前のわたしと同じことを言っていたら普通にむかつくと思う。「障害者のことをよく知らないだけだ」と言い返すと思う。そのとおり、わたしは知的障害者グループホームで2年も知的障害者の方々と関わってきたのに障害者のことを全然知らなかったのだ。

 

 介助のバイトを始める前のわたしは「そういう(障害者を『助けが必要な存在』として規定するような)感覚が消えていくんじゃないかと期待して」いたが、では実際に障害者の介助のバイトをするようになってどうなったかというと、その感覚はバイトに入った最初の日に、消えた。

 たしかに助けは必要だが、取り立てて言うようなことではない。なんというか……わたしは視力が0.1未満だからメガネかコンタクトがないと日常生活に支障をきたすのだが、逆にメガネかコンタクトがあれば自由に暮らせるわけで、障害者が必要とする介助はそういうことのグラデーションなのだ。他人の助けを借りないとトイレができない。服を着替えられない。でも他人の助けを借りればトイレはできるし服も着替えられます、以上。本当にそれだけのこと。

 難しいことを考えようとせず、ただ同じ空間で過ごして、話して、知ればいい。それだけのことだったんだと思ったら文章打ちながら泣きそうになってきちゃった。