2022-11-22 vol.2

休日。

 

午前中に車で30分くらいの産直市場へ行った。

免許を取って2年くらい経つがまだ自分の運転を信用できない。運転技術が頼りないのも当然あるが、もっと根本的に、事故を起こさない確証がないことが恐ろしい。たとえば運転中に道端の看板に気を取られて歩行者に気づかなかったらどうしよう、全然関係ないことを考えているうちに信号無視してしまっていたらどうしよう。不注意にならないように注意することはできないのだから、こういうことは防ぎようがない。それで車から降りるたびに「今日事故を起こさなかったのは奇跡だ」と思って身震いする。

 

家に帰って、産直で大量購入した早生みかんを無心で食べながらお気に入りのweb記事を読み返してだらだらしていたら夕方になった。みかんは20個くらい無くなっていた。我を忘れて過ごしていた。

休みの日にやりたかったことはたくさんある。少しでも消化しようと思い立って、図書館で取り置きしている本を借りに行った。途中で図書カードを忘れたことに気づき、「不注意に注意することはできない」と朝考えたことを反芻しながら引き返す。一度帰宅して財布に図書カードを入れ、気を取り直して図書館へ。施設に到着して図書館のある階へ行くと、休館日だった。「不注意……」と思いながら帰宅すると、玄関に図書カードを入れた財布が置きっぱなしになっている。開館日だったとしても取りに帰らなければいけなかったのだ。唖然とした。

不注意云々の前に、そもそも今日はやる気がなかったのかもしれない。

 

・・・

 

休みと仕事の捉え方について考えている。今日はバイトも人と会う予定も何もない休日だった。明日は9時から16時までバイトがある、仕事の日。なんとなく今日はオフ、明日はオンの日だと感じている。そのせいで昼間はスマホ見てだらだらと過ごしてしまったのかも。

ところで、休日には「仕事」が全くないのかと考えるとそんなことはない。私の場合はグループホームのアルバイトが「仕事」だが、バイトがない日でも家の掃除や買い物、料理の準備、片付けなど、日常生活を送るうえでやるべきことは尽きない。そういった家事も一つの「仕事」ではないか。またグループホームのアルバイトでは家事手伝いのようなことをして給料を貰っているが、自宅で自分の家事をするのと何が違うのか。利用者の身の周りの世話をしながら楽しく過ごす時間は、むしろ休日に友達と遊ぶのと似ている部分がある。仕事の日に遊んで、休みの日に家で仕事をしているなら、「仕事の日/休みの日」という区別は一体何のためにあるのか。

おそらく無意識のうちに「仕事の日/休みの日」という枠組みに嵌まった思考をするせいで「仕事中なのに休んで(サボって)いる」「休みの日なのに休めなかった」という悩みが生まれるのだ。休みについてもっと柔軟に捉えた方がいい。人間は一日単位で働いたり休んだりするものではない。仕事の中で休みを取り、休みの中で仕事をする。その方が自然だし、実際にそうしているはず。

バイトがない日に「今日は休みだ」と思ってしまうと、バイト以外にやるべき仕事まで気合が入らなくなくなってしまう。今日私の身に起こった不注意の原因はそういうことかもしれない。生きるとは毎日が仕事であり、だからこそ休みが必要なのだ。