2022-11-22

犬が亡くなって生活環境が大きく変わり、日記をつける習慣があったこと自体忘れかけていた。

昨日、久々に昔の自分が書いた日記を読み返して感動した。自分が書いたとは思えないほど良い文章だ。実際書いたときの気持ちを一切思い出せないのだから、もう他人が書いたと言ってしまってよい。

今は限定公開にしている別名義のブログに投稿した記事だったが、あまりに感動したのでこのブログにも再掲した。

 

さて、犬が亡くなってから二ヶ月と少し経つ。亡くなった直後は、暮らしのなかで常に犬の体調を気にかける習慣が抜けず、犬が寝ているはずのリビングを覗いたり外出時に犬の世話のことを考えたりするたびに「ああ、もういないんだった」と思い出して泣いていたが、今では犬のいない生活にすっかり慣れてしまった。二ヶ月前まで犬用の布団を敷いていた場所にはこたつを出した。犬の吠える声が響いていた午後十一時の我が家はしんとして、近くの旧国道を走るバイクの音が時々聞こえるだけ。リビングに犬の写真や首輪を飾っているが、毎日手を合わせるわけでもなく、犬のことを思い出さない日も増えた。

馴染みの生活からいなくなったという実感が薄れてくると今度は、犬の純粋な不在が浮かび上がる。犬にごはんをあげたり寝かしつけたりといった生活習慣が急激に変化したことの動揺から切り離された、犬がいないという事実。

私にとって犬はどういう存在だったのか。

私は言葉を話す。恋人や友人や親に理解されたくて、たくさんの言葉を使う。言葉を使ったコミュニケーションは、しかし、言葉にならない感情を取りこぼしてしまう。原理上、言葉を使って他人に気持ちを伝えきることはできないのに、愚かな私は時々、自分の気持ちを余すところなく完全に理解してくれる「誰か」を夢想する。落ち込んだり疲れたときは特に。

犬は言葉を話さない。ごはんをあげると食べ、水をあげると飲み、散歩に連れていくと隣を歩く。話しかけると目線を寄越し、撫でると全身の温もりで応えてくれる。

私と犬との間には、言葉を介さないコミュニケーションが確かにあった。私はそれを、言葉によって失われる心配のない完全な繋がりだと錯覚していたのだ。そんなものはないと分かっていたつもりだが、二度と犬の温もりを感じることができないと思うと、泡沫の夢さえ見られない氷の世界に突き落とされたようで、つらくなる。

大切な人を失くしたことを「心に穴が空く」と表現することがあるが、私の気持ちはそれとは違う。心のなかの犬がいた場所に穴が空いたのではなく、犬と共にあった人生が丸ごと穴に落ちたようである。穴の底でも楽しく暮らしているが、元の場所には二度と戻れない。