2022-12-4

最近買ってよかったオレンジ色のもの

 

ナカバヤシのA6ノート

A6は片手で持って書くのにちょうどいい大きさ。やりたいことのアイデア、悩んでること、日記、メモ書き、独り言など全部ひっくるめて書いている。

「他人を気遣うのと同じように自分を気遣う」というのを考えているうちに、自分の頭の中だけで生まれ続ける思考を他者化するためのツールとして使ったらいいんじゃないかと思いついた。頭の中にあった思考がノートの上に吐き出されると、自分自身が考えたことでありながら広い意味での「他者」になり得る。かつて自分だった他者。

実際に1週間と少し使ってみて、明らかに生活全体に良い影響が出ている。狙い通り「他人を気遣うのと同じように自分を気遣う」ことができている感覚もあるし、複雑なことを考えるお助けアイテムにもなる。くよくよ悩んでいることも書いてしまえば「何をくよくよ悩んでるんや……」と他人事になるか、あるいは、かつて自分だった他者にたいして、秘密を共有する友達として、励ましたり建設的なアドバイスをしてあげようという気にもなる。

まだ1週間だけど出かけるときも必ず持って行って、電車の中でもノートを広げてどうでもいいことから忘れたくないことまで全部書き込んでいる。どこで広げても邪魔にならない大きさなのが良い。あと2.5mmの方眼は図を描いたりするときに便利。ペンはパイロットのjuice up 0.3mmを使っていて、これが丁度いい。太すぎると2.5mm方眼に合わないと思う。

ちなみに大好きな中村佳穂さんが常にノートを持ち歩いているという話に憧れた部分もある。佳穂さんとは使い方が違うのかもしれないが結果的に私もノートを持ち歩く生活が気に入っている。すでに習慣として生活になくてはならない大切なものになった。

ちなみにちなみに、本当はもっと濃いオレンジ色がよかったのだがたまたま在庫切れだったので妥協して薄い色の方にした。手元に届いて見るとネットの画像よりも赤っぽいオレンジ色で、好みの色だったので満足。

 

・ユースキン(クリーム)

ひび・あかぎれ・しもやけを治すクリームだそう。よく知らなかったけどパッケージのデザインに一目惚れして、最近ちょうどニベアのクリームがなくなりかけていたので新しく買ってみた。

化粧水つけたあとの顔に薄くすり込んで寝るのを3日くらい続けたら信じられないくらい肌の調子がよくなった。具体的に言うとおでこ~前髪の生え際の皮膚が薄いところにまあまあな量のニキビやぷつぷつがあったのだが、全部消えた。あまりに劇的に肌トラブルが改善したのでこのまま使い続けたら肌の細かい凹凸まで全部消えてしまう気さえする。

安いし多いし肌にも合っていて、今のところすごく気に入っている。薬っぽいニオイがするけど私は全然気にならなかった。

 

・工房尾道帆布のポーチ

旅行で行ったしまなみ海道の某島の直売所で買った。帆布(はんぷ)はもともとヨットの帆に使われていた布のことで、なんだかとっても丈夫そう。オンラインショップもあるけど私が買った商品だけは通販で売っていないのか、どうしても商品ページを見つけられなかった。

ポーチは縦長でチャックが上部にしかついておらず、中身を出し入れしづらいが、少ない化粧品を入れるには丁度いい大きさ。縦長だからカバンに入れたときすっきりする。

ぶっちゃけ他にも気に入ってるポーチは持っていたから買わなくてもよかったと言えばよかったけど、色の三属性すべてが最高のオレンジ色だったのでどうしても手に入れたくなった。結果、外出時に持っていくたびに最高のオレンジ色が目に入って気分が上がるので買ってよかった。

 

2022-11-24

グループホームのアルバイトでは利用者さんの生活のお手伝いをする。仕事内容について知らない人はなんとなくトイレや入浴の介助などを思い浮かべると思う。それも主な仕事の一つだが、それとは別でもう一つ大切な仕事がある。どのように表現すれば適切に伝わるのかわからないが、生活習慣のマネジメントとでも言えばよいだろうか。食後の歯磨きを面倒くさがる利用者さんに「○○分休憩したらやりましょう」と声をかけたり、朝起きるのが遅い利用者さんに「もうすぐバスが来るから、がんばって起きましょう」と励ましたり。(あえて通俗的な言い方をすると、まあ「お母さん」的な仕事である)

他人の体調や健康を考えてこういうサポートをするのは楽しいしやりがいもある。感謝されて認められることが嬉しい、というだけでなく、他人のために働くことが本当に純粋に楽しい。いい仕事をしている。

こんなに楽しいのなら自分相手にも適用すればいいのではないかと考えてみる。自分の行動を俯瞰で捉え、自分自身を徹底して他人とみなす。行動の主体となるめぐみさんと同じ座標にサポート役のめぐみちゃんを配置し、常に寄り添って適切な声かけを行う。「今Twitter開くと夢中になって他のことができなくなるから、先に皿洗いした方がいいですよ」「こないだ調子に乗って食べすぎて体調を崩したから今日は腹八分目でやめておいた方がいいですよ」等々。主人であるめぐみさんが面倒くさくてやらないと言うなら世話係のめぐみちゃんが代わりにそれをやってあげる。めぐみちゃんのおかげでめぐみさんの体調は良くなるしめぐみさんのおかげでめぐみちゃんは他人のために働くことができて楽しい。めぐみさんはめぐみちゃんに感謝するしめぐみちゃんはめぐみさんの喜びをリアルに感じ取れる。めぐみちゃんはめぐみさんの体調から予定から全部把握していて的確な支援ができる。なぜなら全部自分だから。その場限りの利益を優先したいという思いと長期的な利益を優先したい(長く快適に過ごしたい)という思いに引き裂かれることがない。なぜなら最初から自分を分割しているから。なんて素晴らしいシステムなんだ。

以前から私は長期的な利益を優先することへのモチベーションが低く、「後で困るとしても今一番やりたいことをすればいいじゃないか」と強く思っていた(し、その主張は“正しい”)が、めぐみ分割システムは他人のために働く楽しさをエンジンにして駆動するので“正しい”かどうか立ち止まって考える必要がない。正しくなくても楽しければそれでいいのだ。

サポート役めぐみちゃんの人生の目標や意義はもはやどうでもよくて、ただ主人めぐみさんが機嫌よく過ごせる方法を具体的に考えるだけ。たとえばこんなふうに。

「めぐみさん、今日は部屋の片付けしたり調べ物したりする予定なんでしょ。もう15時になっちゃいますよ。ブログ書くのは明日もできるから今日はこの辺でやめといたらどうですか」

「たしかにそうやなあ。さすがめぐみちゃんやわ。でも片付けするのちょっと面倒くさくなってきた」

「じゃあわたしが代わりにやりましょうか」

「ほんまに?」

めぐみさんはにっこり笑う。

「めぐみちゃん、ありがとう」

2022-11-22 vol.2

休日。

 

午前中に車で30分くらいの産直市場へ行った。

免許を取って2年くらい経つがまだ自分の運転を信用できない。運転技術が頼りないのも当然あるが、もっと根本的に、事故を起こさない確証がないことが恐ろしい。たとえば運転中に道端の看板に気を取られて歩行者に気づかなかったらどうしよう、全然関係ないことを考えているうちに信号無視してしまっていたらどうしよう。不注意にならないように注意することはできないのだから、こういうことは防ぎようがない。それで車から降りるたびに「今日事故を起こさなかったのは奇跡だ」と思って身震いする。

 

家に帰って、産直で大量購入した早生みかんを無心で食べながらお気に入りのweb記事を読み返してだらだらしていたら夕方になった。みかんは20個くらい無くなっていた。我を忘れて過ごしていた。

休みの日にやりたかったことはたくさんある。少しでも消化しようと思い立って、図書館で取り置きしている本を借りに行った。途中で図書カードを忘れたことに気づき、「不注意に注意することはできない」と朝考えたことを反芻しながら引き返す。一度帰宅して財布に図書カードを入れ、気を取り直して図書館へ。施設に到着して図書館のある階へ行くと、休館日だった。「不注意……」と思いながら帰宅すると、玄関に図書カードを入れた財布が置きっぱなしになっている。開館日だったとしても取りに帰らなければいけなかったのだ。唖然とした。

不注意云々の前に、そもそも今日はやる気がなかったのかもしれない。

 

・・・

 

休みと仕事の捉え方について考えている。今日はバイトも人と会う予定も何もない休日だった。明日は9時から16時までバイトがある、仕事の日。なんとなく今日はオフ、明日はオンの日だと感じている。そのせいで昼間はスマホ見てだらだらと過ごしてしまったのかも。

ところで、休日には「仕事」が全くないのかと考えるとそんなことはない。私の場合はグループホームのアルバイトが「仕事」だが、バイトがない日でも家の掃除や買い物、料理の準備、片付けなど、日常生活を送るうえでやるべきことは尽きない。そういった家事も一つの「仕事」ではないか。またグループホームのアルバイトでは家事手伝いのようなことをして給料を貰っているが、自宅で自分の家事をするのと何が違うのか。利用者の身の周りの世話をしながら楽しく過ごす時間は、むしろ休日に友達と遊ぶのと似ている部分がある。仕事の日に遊んで、休みの日に家で仕事をしているなら、「仕事の日/休みの日」という区別は一体何のためにあるのか。

おそらく無意識のうちに「仕事の日/休みの日」という枠組みに嵌まった思考をするせいで「仕事中なのに休んで(サボって)いる」「休みの日なのに休めなかった」という悩みが生まれるのだ。休みについてもっと柔軟に捉えた方がいい。人間は一日単位で働いたり休んだりするものではない。仕事の中で休みを取り、休みの中で仕事をする。その方が自然だし、実際にそうしているはず。

バイトがない日に「今日は休みだ」と思ってしまうと、バイト以外にやるべき仕事まで気合が入らなくなくなってしまう。今日私の身に起こった不注意の原因はそういうことかもしれない。生きるとは毎日が仕事であり、だからこそ休みが必要なのだ。

2022-11-22

犬が亡くなって生活環境が大きく変わり、日記をつける習慣があったこと自体忘れかけていた。

昨日、久々に昔の自分が書いた日記を読み返して感動した。自分が書いたとは思えないほど良い文章だ。実際書いたときの気持ちを一切思い出せないのだから、もう他人が書いたと言ってしまってよい。

今は限定公開にしている別名義のブログに投稿した記事だったが、あまりに感動したのでこのブログにも再掲した。

 

さて、犬が亡くなってから二ヶ月と少し経つ。亡くなった直後は、暮らしのなかで常に犬の体調を気にかける習慣が抜けず、犬が寝ているはずのリビングを覗いたり外出時に犬の世話のことを考えたりするたびに「ああ、もういないんだった」と思い出して泣いていたが、今では犬のいない生活にすっかり慣れてしまった。二ヶ月前まで犬用の布団を敷いていた場所にはこたつを出した。犬の吠える声が響いていた午後十一時の我が家はしんとして、近くの旧国道を走るバイクの音が時々聞こえるだけ。リビングに犬の写真や首輪を飾っているが、毎日手を合わせるわけでもなく、犬のことを思い出さない日も増えた。

馴染みの生活からいなくなったという実感が薄れてくると今度は、犬の純粋な不在が浮かび上がる。犬にごはんをあげたり寝かしつけたりといった生活習慣が急激に変化したことの動揺から切り離された、犬がいないという事実。

私にとって犬はどういう存在だったのか。

私は言葉を話す。恋人や友人や親に理解されたくて、たくさんの言葉を使う。言葉を使ったコミュニケーションは、しかし、言葉にならない感情を取りこぼしてしまう。原理上、言葉を使って他人に気持ちを伝えきることはできないのに、愚かな私は時々、自分の気持ちを余すところなく完全に理解してくれる「誰か」を夢想する。落ち込んだり疲れたときは特に。

犬は言葉を話さない。ごはんをあげると食べ、水をあげると飲み、散歩に連れていくと隣を歩く。話しかけると目線を寄越し、撫でると全身の温もりで応えてくれる。

私と犬との間には、言葉を介さないコミュニケーションが確かにあった。私はそれを、言葉によって失われる心配のない完全な繋がりだと錯覚していたのだ。そんなものはないと分かっていたつもりだが、二度と犬の温もりを感じることができないと思うと、泡沫の夢さえ見られない氷の世界に突き落とされたようで、つらくなる。

大切な人を失くしたことを「心に穴が空く」と表現することがあるが、私の気持ちはそれとは違う。心のなかの犬がいた場所に穴が空いたのではなく、犬と共にあった人生が丸ごと穴に落ちたようである。穴の底でも楽しく暮らしているが、元の場所には二度と戻れない。

2022年2月7日の日記(再掲)

※別名義のブログ(現在は限定公開)に投稿したものです。

 

 

 

介護に関わる日々を通して、私が思う「介護」という言葉の意義が変化してきた。

以前は、老人や障害者にの食事や排泄、身の回りの世話を行うことこそが「介護」だと思っていた。本来の語義は大体それで合っているのではないかと思う。

しかし最近、その定義に当てはまる行為でも「これは介護じゃないな」と思うことが多くなった。

わかりやすい例で言うと、トイレ介助を行う際に利用者さん自身の言葉で「○○して」と頼まれたときには、なんとなく「介護」ではない感じがする。「ちょっと醤油取って」くらいの単なるやりとり。

逆に、明らかに「介護」だと思うのは、例えばお茶を飲みたくなさそうな利用者さんに何とか水分補給していただこうと、あの手この手でお茶を勧めたりするとき。介護者がいなければ健康を損なう可能性が高い場合には「今、介護をしているな」と感じる。

 

ところで、誰かの言葉で「人に助けを求めるのは一つの技術だから、練習が必要」というのを聞いた。坂口恭平さんだったかな。

チームワークの重要性が科学的に証明される時代になってもなお、何でも自分一人でやれて一人前、という価値観は社会全体に不可視的に蔓延っているように思う。

人に助けを求める能力に欠けるために、膨大なストレスを一人で抱え込んで抑鬱に陥ったり、精神の健康を損なう結果に至る人は、私の周りにも少なくない。かつての私もそうだった。そういう人は健常者のふりをしているが、もう立派な要介護者である。

だから情けない、のではない。そのようにしてあらゆる側面から見れば、すべての人間は要介護者であり、人との関わりとは介護である(介護とは人との関わりである)と言えるのではないか。

 

 

 

2022-09-25

 実家で飼っていた犬が亡くなりました。16歳、老衰でした。

 大学卒業とほとんど同じ時期から犬の認知症が始まり、夜鳴きや徘徊、粗相をするようになりました。二年弱に渡る介護生活はまあ大変でしたし、家族全員が代わる代わる体調を崩したりしました。それでも終わってしまうと本当に寂しい。朝起きて一番に今日一日の犬の世話のことを考えたり、リビングを通るときは犬を起こさないように静かに歩いたり、バイトから帰ってきて真っ先に犬の様子を確認したり。犬をひとりで留守番させることができないから、家族の誰かが外出する日は必ず一人は家に残れるように予定を調整したり。犬の介護のことを軸にして生活が回っていましたから、急にその必要がなくなって自由が訪れると、思考が空回りするような感覚になります。何か考え事をする度に、そうか、もう家を留守にしてもいいのか。自分のために時間を使っていいのか、と気づく。そういう瞬間がどうしようもなく寂しいです。介護は気が滅入ることも多く、自分のやりたいことが思うようにできなくて辛い気持ちもありましたが、亡くなった犬に思うのは、一番に考えさせてくれて、大事にさせてくれてありがとう。お世話させてくれてありがとう。そんな感謝の気持ちばかりが湧いてきます。

 いつ何が起きても受け入れられるようにと真摯に向き合っていたので後悔はありません。それでも人生の大切な時期を一緒に過ごした犬ですから、寿命とはいえ辛いし、とても寂しい。しかし、犬が生きていた過去の時間を懐かしむと同時に、生きている家族や友人たちとの現在の時間も尊いものだと心から感じます。

 ここ一週間で何かと予定を変更してしまったり、元気があったりなかったりと、一部の方には迷惑をかけてしまいました。自分でも元気があるんだかないんだかわかりません。ペットを亡くした直後でも毅然と対応する人もいるのでしょうが、私はまだ不安定な状態が続きそうです。周りの人の優しさに少しだけ甘えて、しばらくは元気があるのかないのかわからないまま過ごします。でも、気持ちは前向きです。

2022-08-04

眠れなくて明け方まで起きていた。今日は、気絶するように眠ってはすぐ目覚めて、を何度もくりかえして曖昧な時間を過ごした。図書館に行こうと思っていたけど、行けなかった。

ガール・オン・ザ・トレイン』観た。浮気・不倫をテーマにした話なのにエロさを微塵も感じさせない。凄いと思った。サスペンスを観ているときどんな気持ちでいればいいのかわからない。メーガン役のヘイリー・ベネットは朝日奈央に似てる。